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家族が見ていた求人募集
僕には一ヶ月ほど前まで転職活動をしていた兄弟がおりまして。
詳細は省きますが、数社経験してまた新しいところに転職をしようと、
色々な求人媒体を漁っていた模様です。
ハローワークやら安定所(?)の文字やら、色んな語彙が飛び交うチラシが実家のテーブルに山積しておりました。
大変やなあ・・・・・・と思いつつ、求人媒体を何気なしに眺めていると、
ある文言が気になりだしまして。
これではありませんが、イメージ、こんな感じの文言。
このワードが求人媒体のいたるところに書かれておりました。
最近こういう広告をよく見かけるなあ・・・・・・。
ここら辺について、自分の幸せの価値観とかについて少し思うことがあり、
つらつらと書いてまいります。
小さいことに幸せを感じるのは幸せ
いきなり話がずれますが、“小さいことに幸せを感じること”はとても素晴らしいな、
と思うんですね。
不幸せの権化ですので小さなことでくよくよするのですが 気になるあの子からLINEが来ない・・・・・・、でも逆に小さなことでも幸せを感じやすいタイプ。
例えば、このブログも全然零細なわけですが、コメントが来るととっても嬉しやす。
ランチで安いとこに適当に入って「まあこの値段だし」で頼んだら予想以上に大盛りだと嬉しやす。
街中を歩いて全く知らないところを見つけるとワクワクしたり(幸せとはちょっと違うけども)。
女の子から連絡が来ると舞い上がっちゃうね
「おいおい安い幸せだなあw」とお思いの方もいるでしょうが、
これはこれで楽しいのです。
よくSNSで「20歳で7桁稼いだ男が最後のビジネス仲間を募集」という最後と言いつつ二年位前から頻繁に見る広告なんかもありますが、ああいうのは興味がなくてですね。車も興味ないし、服もブランド物は別に「うーん」って感じだし、「六本木のマンションでパーチーだぜヒャッハー!」とか言われるよりも、古民家で寝る方が好きだったり、ゆえん若者の〇〇離れを体現したようなゆとり世代でございます。バブルの皆様ごめんね
以前「一緒に稼ごうぜウェイ!」系のビジネスの方とお話したときに、
こんな感じのニュアンスの内容を話したら「ふふっw」と嘲笑され
貴様を蝋人形にしてやろうかと
イラついた経験があるくらいには、
小さなことに幸せを見出すタイプです。
やつは蝋人形にしてやる前に勝手に会社が行政指導を受けました
あ、そういえば静かなお店で一日中ブログ書いたりyoutubeで違法音楽を聴くのも好きっすね。これを書いてるなう、な状況です。
安い男と言われようとも小さいことに幸せを感じるのはとても良いのかな、
と思います。はっぴーわんだふる。
世に出るサービスやら商品やらがなんか便利になりすぎて、
「もっと!もっと!便利に!」の大合唱になっている気がしないでもない今日この頃。僕は多少不便でも、普通に暮らせるだけのツールがあれば幸せと思いますけどね。
自分で選択して、大小問わず幸せを感じるコトが増えれば、
それだけではっぴーわんだふる。
消去法で「これは幸せ!」と“思わなければ”いけない物事も多い
で、本日の主題はコチラ。
大小問わず、自分で「これが幸せ!」と思えるものを見出すのは、
何度も言うように素晴らしいコト。
でもそれとは似て非なる全く別物、「これが幸せ!」と思わなければいけない物事も溢れてねーか?と思うのです。
一番思うのが、冒頭の転職系やら正社員募集系の広告。
家でみかけた「目指せ正社員」的な広告しかり、最近よく見かけます。
転職希望者やフリーター等の既卒者向けの広告に多いでしょう。
もちろん”会社に就職”ということを伝えるものではあるので、
正しい表現ではあります。これ以上に無いほど、しっくりくる文言。
間違ってはいない。
ただなんというか、これが溢れすぎてて”幸せの価値基準が正社員しか残ってない”っていう状況なんじゃないかなー、とふと思ったり。あ、就職ってものに関してはね
“正社員になれたら幸せ”もとい
“正社員じゃなきゃ幸せになれないよ”
こういったメッセージが裏側から漂ってる気がしてならない、のである。
「正社員になるのが一番の目標でそれがあれば満たされる」という方はもちろんいらっしゃると思います。今までそういった経験が無く、本人にとっては未知の領域である正社員。そこに多大な憧れを抱くのはごく自然な流れ。そういった方にとってはそこが“幸せの価値観”であると思う。
でもこの価値観が溢れすぎてて、
「正社員になれれば幸せ。いや、むしろそれが普通。そんな普通のコトが幸せ・・・!」
という考えが良いと刷り込まれてしまう方もいるのでは、と考えたりします。
つまりは、当人が無意識的・意識的に感じてしまうプレッシャーです。
この記事でも書きましたが、世間はレールに乗った人間じゃないと、冷たい。
そこから外れないために、「これが幸せである!」と決められたものに乗っかり、
「それに乗れれば自分は幸せ☆」なんてことが“思わせられること”が多い。
消去法で選ばれた幸せは、結局残り物である
僕はどんな幸せの価値観を持っていても良いと思います。
というか他人が個人の価値観に口出しするなんてなんておこがましい!
人の生き死にと一緒ですね、本間先生・・・・・・
でもそれは「自分で選んだ結果」という前提がある場合の話。
「正社員が幸せ!」という価値観を自分で考えて持つ分にはばっちこい。
でも“そう思うコトが幸せだ!”と(意識的・無意識的問わず)思い込んでる状況、
これはちょっと違うんじゃないかな。
例えば僕の価値観も、もし「いやいやワイワイ遊ぶなんて幸せじゃないから。日常の小さいことに幸せを感じた方が絶対良いから!」なんて刷り込まれた日にゃ、きっとその価値観は僕の価値観にはならなくなる。もし幸せだと思ったとしても、それは消去法で残ったものでしかない。
そんなこともあり、正社員系の“あれ”は、なんだか好きになれません。
「正社員になれるだけでも幸せよ!」ってメッセージが伝わってきて、なんだかなあ。
やっぱり日本は「こうあるべき!」という考えが強い
それもこれも大抵は、わが国独特の、と言いましょうか、
「こうあるべきだよね」という考え方に帰着するのではと思います。
価値観なんて個人個人違ってしかるべきだと思うんですが、
なんだかんだそこも揃えたいようで。幸せの価値観を揃えても、ねえ。
それに新卒で就活をするときは散々、
「夢だ!」
「希望だ!」
「やりたいことだ!」
「将来のビジョンだ!」
「会社はキャリアのステップだ!」
ってキラキラしていたものを描いていたのに、
それがここに来てころっと「正社員になれればそれで幸せ☆」に変わるなんて。
学生が終わった途端、幸せの基準下がってません?
そういえば最近書評記事を書いた中川淳一郎氏の本にも「就職ごとき失敗しても気にするな」とか「仕事に崇高なものを求めるな。無理してキラキラしなくていいよ」というようなメッセージを感じたなあ・・・・・・。
実家で広告を見かけてからモヤモヤし続け、これを読んでみてよりぐっと”幸せ”についてついつい考えてしまったっぽいですな。